個人向け国債で備えよう
infomation
初回利子の調整額とは
2006年以降に発行された国債については、原則的に4月、7月、10月、1月の各15日が発行日となります。
しかしその日が土曜日などの非営業日の場合は、翌営業日を発行日とします。
このため、発行日から初回の利子支払い日までが半年に満たない場合があります。
国債の利子は、半年ごとに半年分がきっちり支払われる仕組みとなっているため、数日分余分に支払われることとなってしまいます。
この調節のために、6ヶ月に満たない日数の利子相当額を購入時に払い込む金額を初回の利子の調整額といいます。
最初に受け取る利子額を、実際に保有していた期間に応じた利子額になるように調節するために払い込むものなのです。
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の打倒と、明との交易再開によって、かつての地位の安定を回復した。1453年夏、エセンは自らハーンに即位し、「大元天聖大可汗」と称した。明はエセンの即位に困惑したが、「オイラトのハーン」として彼の立場を認めた。しかし、モンゴルだけでなくオイラトその他まで含め、モンゴル高原の人々の間には反発を招いた。エセンは、母方でこそチンギス・ハーンの血を引いているものの、ハーンの男系子孫ではなく、そのハーン即位は13世紀以来のチンギス統原理に反していた。また、諸部族によってハーンに相応しい者としてクリルタイ(大集会)で選出されたわけでもなかった。
即位翌年の1454年、オイラトの内部でエセンに対する反乱が起こり、オイラトの有力者アラク・チイン(阿剌知院)[6]に敗れたエセンは、逃亡の途中に殺された。モンゴルの年代記によれば、アラクは、エセンのハーン即位以前の称号であり、ハーンの第一の臣下を意味する「タイシ」の称号を与えられることをエセンに願ったが拒否されたため、これを怨んで反乱を起こしたという。
エセンの死後、オイラトはモンゴルをもはや支配できず、数年のうちに分裂してしまった。北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族名称である。
日経225と呼ばれる人々の実態は多様であり、その名が用いられる時代と場所によって指し示す民族は異なる。
現在では、ロシア連邦内のヴォルガ川中流にあるタタールスタン共和国に住むタタール人、ウクライナ領のクリミア自治共和国に住むクリミア・タタール人などが自称の民族名としてタタールを称する。中国の少数民族のひとつタタール族(塔塔?族 t?t??rzu)は、中国領に住むタタール人のことである。
語源は古テュルク語で「他の人々」を意味した Tatar(タタル)で、伝統的にはもっぱら、中国語では韃靼(だったん、ダーダー、?音: dada)、アラビア語では???(タタル)、ペルシア語では ????? (タータール)、ロシア語では Татар(タタール)、西ヨーロッパの諸言語では Tartar(タルタル)と呼ばれてきた。日本では、古くは中国から伝わった韃靼を使っていたが、現代ではロシア語風にタタールと呼びかえることが一般的である。
先物取引という語の現在明らかになっている最古の使用例は、突厥が、当時モンゴル高原東北のバイカル湖方面で遊牧していたモンゴル系遊牧民の諸部族を総称して呼んだ突厥文字で記した碑文においてである。のちに中国の側もテュルク語のタタルを取り入れ、唐末には当初「達靼」や遼では「達旦」などと表した。こうして宋や金では彼らの総称として漢語名「韃靼」が生まれた。
これらの遊牧諸部族は突厥滅亡後のモンゴル高原中央部でテュルク系のウイグル、キルギスの遊牧国家が相次いで倒れると南下を開始し、モンゴル高原の中部から東部に広く分布するようになった。高原の東南に遊牧していたキタイが遼を建国するとこれらの遊牧諸部族は遼の支配を受け、ときに遼に反抗しながら部族の興亡を続けるが、この時期に台頭したケレイト部、ジャライル部などと並ぶ有力部族のひとつに元来は他称であったタタルを自称の部族名とするタタル部があった。隋唐時代に室韋の後身で、オルホン碑文に「30姓タタル」Otuz Tatar の一派がモンゴル時代前後に活躍したタタル諸部族と考えられている。11世紀のマフムード・カーシュガリーの『テュルク語集成』にも、タタール(Tat?r)は、ビザンツ帝国(al-R?m)から中国(al-??n)の地までに広がるテュルクの一部族としてキプチャクやオグズ、キルギス(Qirqiz)などとともに述べられているが、これらとの関係は不詳である。
先物取引は12世紀に遼に取って代わった金と結んでモンゴル部のアンバガイ・カンを殺したためモンゴル部の恨みを買い、12世紀末にモンゴル部の部族長となったチンギス・カンが勃興するとモンゴル部によって滅ぼされた。やがてチンギス・カンがモンゴル高原のモンゴル系・テュルク系遊牧諸部族を統合してモンゴル帝国が興ると、かつてのタタル部も勢力は振るわなかったもののモンゴル帝国を構成するモンゴル部族連合に所属する一部族として存続した。
『元朝秘史』によれば、タタル部族は13世紀初頭にはアルチ、チャガン、ドタウト、アルクイと呼ばれる4氏族の名がある。一方、『集史』ではトトクリウトを筆頭に同じくアルチ、チャガンの他にクイン、テレイト、バルクイの計6氏族が数えられている、モンゴル高原でも有数の部族集団であった。
『集史』ではチンギス・カンのオルドの管理を行っていた最有力の大ハトゥンが第一皇后ボルテを含め五名いたことが述べられているが、うち第五皇后イェスルンおよび第三皇后イェスゲンの姉妹はトトクリウト・タタル氏族の首長イェケ・チェレンの娘たちであった。チンギス・カンの養子としてホエルンらに養育されたシギ・クトクやクリ・ノヤンなど、タタル部族は氏族それぞれがチンギス・カン家の各王家で有力な部将や姻族として政権の中枢を担った。ヨーロッパのキリスト教世界の中でももっとも東に位置し、恒常的にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシ(現在のロシア・ウクライナ<※当時は、北東ルーシのノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国や南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公国など10以上のルーシ(諸侯)が分裂・割拠していた>)は1223年にモンゴル帝国の最初の襲撃を受け、1237年にはバトゥ率いる征西軍の侵攻を受けて、ノヴゴロド公国以外は全てモンゴルの支配下に入った。ルーシの人々は、おそらく周囲にいたポロヴェツなどのテュルク系遊牧民が東方のモンゴル系遊牧民たちをタタルと呼んでいたのにならって、彼ら東からやってきた遊牧民たちをタタールと呼んだ。
バトゥの征西で大被害を受けたルーシは、続けてバトゥがヴォルガ川下流に留まって建国したキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の支配下に入り、モンゴルへの服従と貢納を強制された。モスクワ大公国が1480年に貢納を廃止し、他地域も独立するまで約200年前後にわたって続くことになる、このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史ではタタールの軛(くびき)と呼ぶ。
キプチャク・ハン国のモンゴル人たちはやがて言語的にはテュルク語化、宗教的にはイスラム教化してゆく。15世紀にはキプチャク・ハン国は再編と解体が進んでクリミア半島にクリミア・ハン国、ヴォルガ川中流域にカザン・ハン国、西シベリアにシビル・ハン国などが生まれるが、これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者と土着のテュルク系などの様々な人々が混交し、現在クリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼ばれるような民族が形成されていった。タタールの中には、ロシアやルーマニアに移住して、キリスト教を受け入れて現地に同化する者も多く現われており、ユスポフ家、カンテミール家など有力な貴族となった家もある。
ロシアは、16世紀頃までに「タタールの軛(くびき)」を脱するが、その後もクリミアやヴォルガ、シベリアなどに広く散らばるテュルク=モンゴル系の人々をタタールと呼んだ。ロシア帝国は18世紀までにこれらのタタールはほとんど全てを支配下に置く。
ロシア治下のタタールのうち、ヴォルガ川中流域のカザン周辺に住むヴォルガ・タタール(カザン・タタールともいう)が経済的・文化的に成長し、ロシア領内のムスリム(イスラム教徒)中で最大の共同体へと発展していった。ロシア・ソビエト連邦ではさまざまな民族に分かれたタタールたちをまとめてタタール民族として扱っていたが、それらのうちでタタールの自治共和国を持つことができたのはヴォルガ・タタール人のみであった。このため、ロシア領を話題とする多くの文脈で、単にタタール人といったときも、狭義にはヴォルガ・タタール人を指していることが多い。