個人向け国債で備えよう
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個人向け国債とこれまでの国債との違い
既存の国債と個人向け国債の最も大きな違いは、個人向け国債が「非市場性国債である」というところです。
個人向け国債は、市場では売買することができず、一定期間が過ぎた後は政府が額面で買い取ってくれます。
既存の国債の売却は、発行後いつでも可能ですが、そのときの金利情勢によって左右されてしまい、非常に不確定なものとなっています。しかし個人向け国債では政府が額面で買い取ってくれることにより、そういった不確実性を排除できたのが特徴です。
資産運用に勃興した後金が内モンゴルの諸部族を服属させ、国号を大清と改めた。これに対して清の脅威にさらされた外モンゴルのハルハとオイラトの各部は同盟を結び、1640年に「オイラト・モンゴル法典」を制定して部族間関係を調整、ハルハとオイラトの抗争はやんだ。
しかしオイラトの内部では、やはり同じころ、部族間の力関係が変化し、内紛が絶えず起こっていた。1632年、ケレイトのオン・ハンの後裔を称するオイラトの有力部族トルグートは内紛を避けて西方に移住し、ヴォルガ川下流域に移住した。彼らの後裔が現在のカルムイク共和国に住むカルムイク人である。
17世紀のオイラトは、モンゴル高原の西部からアルタイ山脈を経て東トルキスタン北部のジュンガリアにかけての草原地帯に割拠し、ホショート部族が有力となっていた。
外国為替証拠金取引の後、ホショート部の首長となっていたグシ・ハン(トゥルバイフ)は、帰依していたダライ・ラマの宗派ゲルク派がチベットにおいて政治的に危機に陥っているのを救うという名目で、1636年にオイラト軍を率いて出動、1637年初頭、チベット東北部のアムド(現青海省)を制圧、その後ラサに上ってダライ・ラマ5世より「シャジンバリクチ・ノミン・ハン、テンジン・チューキ・ギャルポ」の称号を授かった。オイラト各部の首長たちはチンギス・ハーンの子孫ではなかったためハーンになることができず、従来は全オイラトを統べる実力者であってもタイシ(中国語の太師)などの称号を名乗っていたが、グシ・ハン以後、時代ごとに、オイラトの有力指導者の一人にダライ・ラマがハーン号と印章を授けるという手続きを経て、ハーンを名乗ることができる慣例が生じた。
しかし、チンギス・ハーンの子孫ではないエセンの即位にはモンゴルの間ではきわめて不敬とみられて評判が悪く、また同輩中の第一人者であったエセンが君主として君臨しようとしたことはオイラト部族連合内の諸部族長が募らせていた不満を爆発させた。エセンは即位からわずか1年ばかり後の1454年に殺害され、オイラトの覇権は挫折した。この混乱により、モンゴルの王族・貴族の数多くが殺害され、生き残ったのはわずかにオイラト部族の母をもつ数人の王子だけという状況となり、モンゴル高原の混乱はさらに続いた。
投資信託、オイラトは勢力を大幅に後退させた。それでも幾人かの有力な首長はモンゴルのハーン位争いに介入し、オルドスなどモンゴル高原の西部を制する勢力を誇った。
しかし、1487年にダヤン・ハーンが即位するとモンゴルの再編統一が行われ、オイラトの勢力はダヤン・ハーンの子孫によって次第に西に追いやられた。16世紀半ばにはダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンに敗北し、世紀の後半にはダヤン・ハーンの別の系統の子孫であるハルハのハーンたちに服属することを余儀なくされた。
日経225がダヤン・ハーンの後裔たちの間で分割相続が進み、アルタンの死から後はモンゴル全体を統一する権力が消滅した結果、1623年になってオイラトはモンゴルより独立を果たした。この時代のオイラト人の間ではモンゴルとは別個の集団としての自意識の形成が進み、モンゴル文字をオイラト方言を記しやすいように改良したトド文字が考案されたりした。グシ・ハンは1638年より1639年にかけ、傍系の兄弟たち、オイラト各部の首長家の傍系者らをその配下とともに呼び寄せ、彼らを率いて残るチベット各地の征服に乗り出した。グシ・ハンの軍は1642年までにチベットの大部分を制圧、ホショート本領は兄の子で正統継承者のオチルトに譲り、チベットにおいてグシ・ハン王朝を樹立した。グシ・ハン率いるオイラト軍はアムドを主としてチベット各地に配置されたが、彼らのうちアムドに居住する者たちがのちに青海モンゴル族と呼ばれるようになった。また、一部のオイラト部民はラサ北方100キロ付近のダム地方に移り住み、グシ・ハン王家に仕える直属部隊となったが、これらの人々の後裔がチベットのオイラト人として現在も続いている。
グシ・ハーンは、援軍としてチベット遠征に従っていたオイラトのジューンガル部(ジュンガル)の首長ホトゴチンに自身の娘を娶わせてバートル・ホンタイジの称号を与え、ジュンガリアのオイラト本国に帰国させてその支配を委ねた。バートル・ホンタイジの死後、ジュンガリアでは再び部族間の内紛が再燃し、1672年にはバートル・ホンタイジの子センゲが内紛により殺害された。センゲの弟で、チベットのダライ・ラマ5世のもとで仏門に入っていたガルダンは、その報を受けるとチベットからジュンガリアに帰還し、還俗してジュンガル部族長となった。そしてガルダンは、オチルトをはじめとするオイラト内のライバルたちを次々に屈服させ、全オイラトの支配権を握る有力な支配者に成長した。
FXは、かつての弟子でもあるガルダンに強い支持を与え、ガルダンはそれに応え、チベット仏教の守護者として、イスラム教勢力やゲルク派に反抗する勢力との戦いに明け暮れ、東トルキスタン全域からモンゴル高原の西部にいたる大遊牧帝国を築きあげた。
さらにガルダンは、モンゴルのハルハ部族の内紛に介入し、モンゴル高原中部に攻め入ったが、ハルハの反ガルダン勢力は雪崩を打って内モンゴルに逃れ、清の康熙帝に服属したため、モンゴル高原の支配権をめぐってオイラトと清朝の全面戦争となった。ガルダンは遊牧兵力の機動力を生かしてよく抗戦したが、偶発的に康熙帝の親征軍に遭遇して敗れ、逃走した。このときジュンガリアのオイラト本国においてガルダンの甥ツェワン・ラブタンが叔父に反旗を翻して自立し、補給を断たれたガルダンは逃走中に死亡した。この抗争の結果、ハルハは内モンゴル諸部と同様に清に服属し、オイラトは清に朝貢することになったが、ツェワンアラブダン以下歴代のジュンガル部族長たちはガルダンの地盤を引き継いでオイラトを支配し続け、チベットや青海をめぐって時に清と対立した。
その結果、ジュンガルに対する不信感を強めた清は、1723年?1724年にチベット、1754年?1755年にジュンガリアに出兵、グシ・ハン王朝とジュンガル帝国をともに征服・解体し、その領土と部族民を清朝の支配体制に組み込んだ。
さらに1760年にはイリ川渓谷にあったジュンガル帝国本領の故地で反清反乱が勃発するが、乾隆帝はこれに激しい弾圧をもって応え、清軍の持ち込んだ天然痘の流行もあってイリ川渓谷にいたジュンガル部族はほとんど絶滅した。現在イリ川渓谷に住んでいるのは、その後清が入植させたカザフ人や満州軍人たちの子孫である。
清は征服したオイラトを満州語でオーロトと呼び、モンゴル諸部と同じく盟旗制度によって編成し、各部族長に爵位を与えて貴族として遇するとともに自治を認めた。清朝治下のオイラトは、モンゴル高原西部のホブド地区に30旗、イリ将軍管轄下のジュンガリアに17旗、青海辧事大臣管轄下の青海地方(チベット・アムド地方)に30旗があった。また、中央チベットのオイラト人は、1717年にグシ・ハーン王朝が断絶して後は、カンチェンネー、ポラネーらチベットの権力者の属下に入り、1751年、清朝がポラネーの後継者ギュルメナムギャルを「清朝に対する反乱」を企てた廉で謀殺した際、駐蔵大臣の管轄下に移されて8旗に編成された。
清が崩壊しモンゴル国がボグド・ハーンのもとに独立を宣言すると、ホブド地区のオイラト諸部はモンゴル政府に従い、モンゴル国に編入された。モンゴル国はアルタイ山脈方面のオイラトをも併合しようと軍を派遣したが中国によって阻まれ、この地方は新疆省を経て新疆ウイグル自治区に編入された。
中央チベットのオイラト人は清朝が滅亡するとチベット政府の統治に接収され、清朝軍の残党をラサから駆逐するのに功績のあったセラ寺の寺領となった。彼らはチベット社会への同化が進み、1950年の段階で、人口は20000人弱、オイラト語はいくつかの単語を操れる程度となっていた。
ヴォルガ川流域にいたトルグート部は、18世紀に入るとロシア帝国による圧迫に苦しみ、イリ川渓谷がジュンガルの消滅によって空き地となったことを知って故郷への帰還を決意した。このとき、ヴォルガ川の西岸にいたトルグート部民はヴォルガ川が凍結しておらず渡ることができなかったためにヴォルガ地方に取り残され、そのままロシア帝国統治下に組み入れられた。彼らはソビエト連邦のもとでカルムイク共和国を形成し、現在に至っている。