個人向け国債で備えよう
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固定利付5年タイプ
2006年1月から新たに発行されたものが、固定利付5年タイプです。満期まで固定された利子が支払われます。
商品としては預貯金に近く、利率の仕組みがわかりやすいことから人気があります。
5年タイプですので5年が満期ですが、10年タイプと違い、発行から2年の経過で中途換金に応じてくれます。
中途換金の手数料は、すでに利払いが行われた直近4回分(半年利払いなので2年分)の利子相当額となります。
保有者が亡くなった場合や、災害救助法の適用対象となった場合には、10年タイプと同様に、2年未満であっても中途換金が可能となります。5年満期の国債ですので、発行後5年経過すると元本が戻ってきます。
外国為替としてサマルカンドに生まれた。青年期から父に従って各地に遠征して功績を挙げたため、ヘラートの長官に任命された。1405年、父が明遠征途中に発病してオトラルで病死した。王朝はもともとティムールの卓越した軍事能力とカリスマ性のもとで成り立っていたため、ティムールの死後、各地で内乱が起こった。シャーはそのような中でヘラートで蓄えた軍事力と父譲りの軍事能力をもって各地を平定し、1409年に王朝の君主として即位したのである。即位後は、父時代からの武断政治を改めて穏健的な政治を採る。まず、父時代からの宿敵であるオスマン朝や明との国交関係を修復して、それぞれ交易を行なった。さらに都をサマルカンドからヘラートに遷して、父の時代による戦乱で破壊された文化施設の保護・復興に尽力した。また、シャー自身も優れた文人であり、文化政策を大いに奨励し、父時代の王朝の全盛期を取り戻したのである。1447年、71歳で死去。後を子のウルグ・ベクが継いだ。
一代の英雄が死去した後、滅亡をたどる運命が多い歴史の中で、シャーは見事に父の遺業を受け継いで帝国を繁栄させた。政治家としては、父のティムールを凌駕した名君であると言われている。
オイラトは、モンゴル帝国以前の12世紀にバイカル湖西部のアンガラ川からイェニセイ川に掛けての地域、現在のモンゴル国西部のフブスグルからトゥヴァ共和国の地にかけて居住していた部族集団で、元来はテュルク系であったとみる説もある。『元朝秘史』、『元史』では斡亦喇?、斡亦剌などと書かれ、『集史』などのペルシア語資料では ?????? ?yr?t と書かれている。のちに瓦剌部と呼ばれる。
FX、オイラト部族集団の首長のひとりとしてクドカ・ベキの名が知られている。『元朝秘史』によると1200年頃に一時アルチ・タタル氏族、グチュウト・ナイマン氏族、メルキト部族などの諸部族の盟主となったジャムカがオン・ハン、テムジン(後のチンギス・ハーン)の連合軍に敗れたコイテンの戦いにおいて、ジャムカ勢の先鋒としてクドカ・ベキも参加している。その後、ナイマン、キルギズなどの周辺諸勢力が征服されたことから、1208年夏にクチュルクおよびメルキト部族連合の盟主トクトア・ベキらの追撃にイルティシュ川周辺に親征してきたチンギス・ハーンに、自ら赴いて帰順した。この時、彼はチンギスよりオイラト部族4個万戸隊の長に任命され自治権を安堵された。『元朝秘史』に見える Tumen Oyirad 「オイラト万戸」というのがそれで、のちの「オイラト四万戸」(Dorben Oyirad)と呼ばれる契機となったと考えられている。併せてこの時の帰順によって、クドカ・ベキの一門はチンギス家の皇女の降嫁を受けて?馬(キュレゲン)家、つまりチンギス家の婿・姻族となり、モンゴル帝国の有力部族集団となった。クドカ・ベキはジョチに従って「森の民」(ホイ・イン・イルゲン)と呼ばれるブリヤト、キルギズ、コリ・トマトなどシベリア南部の狩猟民の征服に協力し、さらにクチュルク、トクトア・ベキの連合軍を撃破してトクトアを戦死させている。その後もチンギスの諸子や孫たちと皇女の降嫁や婿などを交換し、各地の遠征には子息たちも従軍するなどモンゴル帝国の中枢で活躍している。
FXのクドカ・ベキ家は13世紀を通じてコンギラト部族などと並ぶチンギス・ハーン家の主要な姻族となった民族である。クドカ・ベキ自身はその後トルイの右翼軍の幕僚となったが、彼にはイネルチとトレルチという二人の息子がおり、その妻としてチンギス・ハーンは、イネルチにはバトゥの姉妹コルイ・エゲチを与え、トレルチにはボルテとの間に儲けた第二皇女チチェゲンを降嫁させている。モンゴル帝国の最後のイラン総督であったアルグン・アカもクドカ・ベキ家ではないがオイラト部族の出身であった。
トレルチの娘たちはチンギス家との姻戚が特に多く、最初トルイに嫁ぎ後にモンケの第一正妃となったオグルガイミシュ皇后やフレグの第四正妃オルジェイ・ハトゥン、ジョチ・ウルスのバトゥの次男トクカンに嫁ぎモンケ・テムル、トデ・モンケの生母となったクチュ・ハトゥンがいる。またチチェゲンとの娘にはチャガタイの嫡孫カラ・フレグに嫁ぎムバーラク・シャーを産んで、一時チャガタイ家の監国となったオルクナ・ハトゥンやアリクブケの第一正妃イルチガミシュ、フレグの第二正妃グユク・ハトゥンが知られている。
フレグの一族でも、コンギラト部族と並んでオイラト王家との姻戚関係が強かったことでも知られている。例えば、特に上記のクドカ・ベキの嫡子トレルチ・キュレゲンとチンギスの第二皇女チチェゲンとの娘グユク・ハトゥンは、後にフレグの第二正妃となっている。チチェゲンは他にブカ・テムルなどを儲けているが、このブカ・テムルはフレグに従って妃となった姉妹たちとともに万戸隊(テュメン)を率いて西方遠征に参加しおり、そのまた彼の姉妹オルジェイがアバカの正妃となり、アバカの兄弟ジョムクル、テクシらはブカ・テムルの娘を娶っている。また、イルハン朝のオルジェイトゥの第四正妃であるハージー・ハトゥンも、バイドゥ・ハンの筆頭部将であったオイラト部族のチチャク・キュレゲンの娘で、アブー・サイードの母となった人物である。
FXを中心とするオイラト部族の将軍たちは、チンギス家の姻族として帝国の各地に移住し、イルハン朝下のイランで活躍したものもあらわれたが、原住地のモンゴル高原ではふるわなかった。モンゴル高原のオイラト部族は上述のようにチンギス・ハーンの四男トルイの末子アリクブケの一族と姻戚関係を結んでいたが、1264年にアリクブケが兄クビライとの後継者争いに敗れたためにアリクブケ一門が政治的にふるわなくなり、オイラト部族もその影響を受けたためとみられる。
14世紀後半以降、モンゴル帝国が解体してゆく過程でアリクブケの後裔イェスデルが、クビライ家正統継承者である北元のトグス・テムル・ハーンを殺害してハーン位を奪取する事件がおこり、14世紀の末から15世紀の前半にかけて、モンゴル高原では西部の諸部族、中でもアリクブケ一門支持派の基幹部族であるオイラトの力が高まった。
15世紀初頭には、オイラト部族長マフムードは高原でもっとも有力な勢力となっていたアスト部族のアルクタイを明の永楽帝が攻撃するのに協力、一躍高原最大の勢力に拡大した。永楽帝は今度はオイラトの覇権を阻もうと1414年に親征を断行しマフムードを討ったのでオイラトは衰退を余儀なくされるなど、オイラトのマフムードとアストのアルクタイは永楽帝の介入を巻き込んでモンゴル高原を左右する争いを続けた。
この騒乱の結果、モンゴルはハーンが次々に改廃され、部族集団が陣営を集合離散する大混乱が起こり、部族の再編が進んだ。こうして形成されたのが四十モンゴル(中国史料では韃靼(タタール)いう)と四オイラト(瓦剌)と呼ばれる二大部族連合であり、オイラト集団はケレイト、ナイマン、バルグトなどを含む部族連合集団に変容した。
永楽帝の死により明の圧力が弱まった後、勢力を拡大したマフムードの子トゴンは1434年にアルクタイを滅ぼし、ハーンを自らの傀儡に擁立して四十モンゴルを従えた。トゴンおよびその子エセンは西ではモグーリスタン・ハン国やウズベクといった遊牧国家と戦って勢力を拡大し、ついにモンゴル高原のほとんどすべての部族を制するに至った。
トゴンが没すると、エセンはトグス・テムルの横死以来50年ぶりに訪れた統一を背景に明に対する侵攻を開始し、1449年に迎撃してきた正統帝の親征軍を撃破して、正統帝を捕虜にした(土木の変)。この戦果は、明側が正統帝の弟景泰帝を即位させて徹底抗戦の構えを見せたためにエセンに十分な利益をもたらさなかったが、これに力を得たエセンは1453年に傀儡のハーンを滅ぼして自らハーンに即位した。